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スイス連邦 1291-1798, 1803-the present

執筆者の写真: 四々縦七四々縦七

スイス連邦 1291.8.1-1648.10.24-1798.4.12, 1803.2.19-the present

1291年8月1日に、ウリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの原初3州が誓約同盟を結成した。この日がスイス建国の日とされている。


1648年10月24日にスイス連邦の独立が承認された(ウェストファリア条約(八十年戦争(1868年〜1648年10月24日)の講和条約)。


【フランス革命戦争・ナポレオン戦争(1792年4月20日〜1815年11月20日)】

1796年3月27日にナポレオン・ボナパルトがイタリア派遣軍司令官に就任して、イタリア遠征(1796年3月27日〜1797年10月18日カンポ・フォルミオ条約)がはじまった。


1798年3月5日にフランス軍はスイスにも侵攻した。スイス連邦(1291年8月1日誓約同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜)の盟約者団は崩壊し、4月12日に衛星国家ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)の建国が宣言された。1798年8月19日にヘルヴェティア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成した。


ロシア・オーストリア連合軍によるイタリア・スイス遠征(1799年4月〜10月)では国内が戦場になり、一時はオーストリア軍によってチューリッヒが制圧され、北イタリアからアレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍が侵攻してくる事態となったが、フランス軍がそれぞれ駆逐した。


1800年5月にナポレオン・ボナパルトはジュネーヴに軍を集結させてグラン・サン・ベルナール峠を越えて北イタリアへ侵攻し(第二次イタリア遠征(1800年5月〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)、オーストリア軍に勝利して(マレンゴの戦い)、北イタリアを再び征圧した。


ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)の中央集権的な統治は機能せず、1803年2月19日にナポレオン・ボナパルトの仲裁によって盟約者団が復活した。この際に、アールガウ、トゥールガウ、グラウビュンデン、ザンクト・ガレン、ヴォー、ティチーノの6州が新カントンとして盟約者団に加わった。


1815年6月9日にスイス連邦の独立と永世中立国化が確認された(ウィーン議定書)。


【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】

スイス連邦は永世中立国として、第一次世界大戦では中立を保った。


【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】

スイス連邦は永世中立国として、第二次世界大戦でも中立を保った。しかし連合国側から、中立義務違反があったのではないかと戦後に指摘された。


現在のスイス連邦の領土

現在のスイス連邦の領土は、フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアと国境を接している。オーストリアとの間には、スイスが利益代表を務めるリヒテンシュタイン公国(1806年〜)が位置する。


スイス連邦の実態は長いこと、United Nations(国際連合)のような複数の国で構成される国際機関であって、南北戦争(1861年4月12日〜1865年4月9日)前のアメリカ合衆国(United States of America)と似ていた。連邦国家としての国家の一体性が育まれるのは、1874年の改正連邦憲法が制定されて以降のことだった。ちなみに、スイスの国の標語は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」だそうだ(ラテン語で"Unus pro omnibus, omnes pro uno")。

1798.4.12 FRW 衛星国家ヘルヴェティア共和国の建国【スイス連邦の一時消滅】

ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)の開催中の1798年3月5日にフランス軍はスイスにも侵攻した。スイス連邦(1291年8月1日誓約同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜)の盟約者団は崩壊し、4月12日に衛星国家ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)の建国が宣言された。1798年8月19日にヘルヴェティア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成した。


中央集権的な統治は機能せず、1803年2月19日にナポレオン・ボナパルトの仲裁によって盟約者団が復活した。この際に、アールガウ、トゥールガウ、グラウビュンデン、ザンクト・ガレン、ヴォー、ティチーノの6州が新カントンとして盟約者団に加わった。


1799.4-10 FRW ロシア・オーストリア連合軍によるイタリア・スイス遠征

アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア・オーストリア連合軍は1799年4月29日にミラノを制圧し、5月27日にトリノを制圧すると、7月には北イタリア一帯を奪回することに成功した。8月15日にジェノヴァ北方でロシア・オーストリア連合軍に敗れたフランス軍は、ジェノヴァに籠城した。


ヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻したオーストリア軍は、1799年6月7日にはチューリッヒを制圧していた(第一次チューリッヒの戦い)ものの、その後フランス軍と膠着状態に陥っていた。アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、ジェノヴァ攻略をオーストリア軍に任せ、スイスに駐留するオーストリア軍に合流するために、9月に北イタリアから北上を開始していた。


9月末にフランス軍はオーストリア軍に勝利してチューリッヒを奪還(第二次チューリッヒの戦い(1799年9月25~26日))し、スイス領内でオーストリア軍の敗報に接したアレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、東に転進して10月のアルプス越えを敢行してオーストリアに脱出した。


1800年に、ロシアはイギリスがバルト海で実施した臨検に抗議して第二次対仏大同盟を離脱した。北イタリアに駐留を続けたオーストリア軍は1800年6月4日にジェノヴァ攻略に成功したが、ナポレオン・ボナパルトによる第二次イタリア遠征により退路を塞がれてしまう。


ロシア・オーストリア連合軍の北イタリア制圧が1799年8月頃に順調に進んでいた状況を受けて、アレクサンドル・スヴォーロフがロシア軍を率いてヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻(オーストリアのスイス侵攻軍とはチューリッヒで合流する予定だった)し、オーストリアはスイス侵攻軍の一部をライン戦線に振り向けようとした様だ。


しかし、オーストリアの北イタリアに対する領土的野心も見え隠れするし、肝心のオーストリア軍が拠点であるチューリッヒを失うという失態を演じてしまい、非のないロシア軍は散々な目に遭う結果となった。また、スイスを失ったことでナポレオン・ボナパルトの第二次イタリア遠征を招き、北イタリアに駐留をつづけていたオーストリア軍も孤立させてしまうことになる。


1800.5-1801.2.9 FRW 第二次イタリア遠征, 北イタリア再制圧

1800年5月にナポレオン・ボナパルトはジュネーヴに軍を集結させてグラン・サン・ベルナール峠を越えて北イタリアへ侵攻した(第二次イタリア遠征(1800年5月〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)。


北イタリアに駐留していたオーストリア軍はジェノヴァに籠城するフランス軍攻囲中だった。ナポレオンはオーストリア軍の背後に迫り、ミラノを占領したが、ジェノヴァのフランス軍は6月4日に降伏してしまった。


一旦トリノに集結したオーストリア軍は東進して脱出を図り、6月14日にアレッサンドリア近郊のマレンゴでフランス軍と遭遇した。フランス軍が逆転で辛勝し、オーストリア軍は降伏した(マレンゴの戦い)。この戦いの後、フランス軍は北イタリアを再び征圧した。


1803.2.19 NBW スイス連邦の復活

中央集権的な統治は機能せず、1803年2月19日にナポレオン・ボナパルトの仲裁によってスイス連邦(1291年8月1日誓約同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜)の盟約者団が復活した。この際に、アールガウ、トゥールガウ、グラウビュンデン、ザンクト・ガレン、ヴォー、ティチーノの6州が新カントンとして盟約者団に加わった。


1798年4月12日に衛星国家ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)が建国されたが、スイスにおいて中央集権的な統治は機能しなかった。1798年8月19日にヘルヴェティア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成していたので、スイス連邦は以前としてフランスの衛星国家ではあった。


1815.6.9 NBW スイス連邦の永世中立国化

1815年6月9日にスイス連邦の独立と永世中立国化が確認された(ウィーン議定書)。


1798年4月12日に衛星国家ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)の建国が宣言されて、スイス連邦(1291年8月1日誓約同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜)の盟約者団は崩壊したが、1803年2月19日にナポレオン・ボナパルトの仲裁によって盟約者団が復活していた。

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