スウェーデン王国 1523.6.6-1814.1.14
1523年6月6日にスウェーデン王国は、デンマーク王国が主導するカルマル同盟(1397年〜1523年6月6日)から独立した。
スウェーデン王国(1523年6月6日〜)は、フィンランド湾沿岸に領地を拡大していき、トルステンソン戦争(1643年〜1645年2月8日ブレムセブルー条約)ででンマーク=ノルウェー二重王国にも勝利して、17世紀にはバルト海の覇権を握るまでになっていた。しかし、大北方戦争(1700年〜1721年9月10日ニスタット条約)に敗北してロシアに覇権を譲った。
【アメリカ革命戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)】
スウェーデン王国は、ロシア、デンマーク=ノルウェー、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国とともに第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加した。フランス、スペイン、オランダと交戦中だったイギリスは、国際的に孤立した状態でアメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)後半を戦うこととなり、敗北した。
フランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)が勃発したころ、スウェーデン王国(1523年6月6日〜)はロシアとの戦争(第一次ロシア・スウェーデン戦争(1788年〜1790年8月14日ヴァララの和約))に勝利し国際的な地位を取り戻していた。
【フランス革命戦争・ナポレオン戦争(1792年4月20日〜1815年11月20日)】
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)がはじまって以来、スウェーデンは中立を保っていた。一時は、イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に反対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェーと第二次武装中立同盟(1800年〜1801年)を結成していた。
しかし、1804年にフランスとの国交を断絶し、イギリスがスウェーデン領ポメラニアを軍事拠点として利用することを認めた。
1805年8月9日にスウェーデンは第三次対仏大同盟に参加し、1805年10月31日にスウェーデンがフランスに宣戦布告してポメラニア戦争(Franco-Swedish War、1805年10月31日〜1810年1月6日パリ条約)が勃発した。
スウェーデンと共に第三次対仏大同盟に参加していたロシアは1807年7月7日にフランスと講和したうえ親フランス路線に転じていた(ティルジットの和約)ところ、1808年2月にロシアがフィンランドに侵攻して第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)が勃発した。
スウェーデンは第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)に敗北しフィンランド全土とオーランド諸島を割譲して講和したため、1810年1月6日にロシアの仲介でフランスとも講和し、スウェーデンは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した(パリ条約)。これにより、スウェーデンは第四次対仏大同盟から離脱した。
1810年1月7日にパリ条約(1810年1月6日)に基づいてスウェーデンがイギリスに宣戦布告してイギリス・スウェーデン戦争(1810年1月7日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。しかし、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))しており、1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発後の1812年7月18日に公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。
ナポレオン・ボナパルトがロシアに敗北すると、1813年3月17日にはプロシアが、8月11日にはオーストリアがフランスに宣戦布告して、第六次対仏大同盟に合流した。
ロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍がフランス軍を追い詰め、ナポレオン・ボナパルトはライプツィヒにフランス軍を集結させた。ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日)でフランス軍が敗北すると、ロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍はフランス本土への侵攻を開始した。
一方で、1813年12月にスウェーデン軍はユトレヒト半島のホルシュタインに侵攻し、デンマーク=ノルウェーから、ノルウェーを獲得した(1814年1月14日キール条約、ただしアイスランド、グリーンランド、フェロー諸島を除く)。
1815年6月9日にスウェーデンのノルウェー獲得は承認された(ウィーン議定書)。ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)中、スウェーデンはロシアとフランスに一度ずつ敗北したが、戦勝国として領土を拡大してウィーン体制を迎えた。
スウェーデン=ノルウェー連合王国 1814.1.14-1905.10.26
【ポスト・ナポレオン戦争】
キール条約(1814年1月14日)に反発したノルウェーと戦争になったが勝利して(スウェーデン・ノルウェー戦争(1814年7月26日〜8月14日モス条約))、スウェーデン=ノルウェー連合王国(1814年1月14日〜1905年10月26日)が成立した。
しかし、1905年6月7日にノルウェー王国が独立を宣言し、1905年10月26日にスウェーデン王国はこれを承認した。
スウェーデン王国 1905.10.26-the present
【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】
スウェーデン王国は、第一次世界大戦では中立を保った。
【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】
To Come
【米ソ冷戦(1945年2月4日〜1989年12月3日)以降】
スウェーデンは中立政策を採っていたが、ロシアによるウクライナ侵攻を受け、2022年5月16日にNATO加盟申請を正式に表明した。
現在のスウェーデン王国の領土
現在のスウェーデン王国の領土はノルウェーとフィンランドと国境を接し、エーレスンド海峡の対岸にはデンマークが位置する。東にはバルト海を擁し、西には北海が広がる。

1643-1645.2.8 トルステンソン戦争
1645年2月8日にスウェーデン王国はデンマーク=ノルウェー二重王国に勝利して講和し、ノルウェー領の一部とデンマーク領のゴットランド島を割譲し、エーレスンド海峡(シェラン島とスカンジナビア半島南部の間の海峡で北海とバルト海を結ぶ)の自由通航権を獲得した(ブレムセブルー条約)。
この戦争(トルステンソン戦争(1643年〜1645年2月8日ブレムセブルー条約))に勝利したことで、スウェーデンはバルト海の覇権を握り、反対にデンマーク=ノルウェーの国際的地位は低下した。
1700-1721.9.10 大北方戦争, ニスタット条約
17世紀当時のスウェーデンは、フィンランド湾沿岸一帯(北から時計回りに、フィンランド・カレリア(ラドガ湖北岸一帯)・イングリア・エストランド(現エストニア領)・ヒーウマー島・サーレマー島)とスウェーデン領リヴォニア(現ラトビア領)そしてスウェーデン領ポメラニアを領有して、バルト海の覇権を握っていた。
1700年に勃発した大北方戦争(〜1721年)においては、スウェーデンとロシア・デンマーク=ノルウェー・ザクセンからなる反スウェーデン同盟などが争った。
1721年9月10日にロシアが勝利して講和し、スウェーデンはカレリア(ラドガ湖北岸一帯)の大半・イングリア・エストランド(現エストニア領)・ヒーウマー島・サーレマー島そしてスウェーデン領リヴォニア(現ラトビア領)を割譲した(ニスタット条約)。ロシアはフィンランド湾を経由してバルト海に出ることが可能となり、ネヴァ川河口には、戦時中の1703年5月27日からサンクトペテルブルクの建設も始まった。
この戦争(大北方戦争(1700年〜1721年9月10日ニスタット条約))を境にしてバルト海の覇権はロシアに移ることになり、1721年11月2日には戦勝を記念してピョートル1世が皇帝に即位した(ロシア帝国の成立)。
1773.6.1 ツァルスコエ・セロ条約
1773年6月1日にロシアはデンマーク=ノルウェーがシュレースヴィヒ・ホルシュタインを統治することを認めた(ツァルスコエ・セロ条約(Treaty of Tsarskoye Selo))。デンマーク=ノルウェーは代わりに神聖ローマ帝国の所領の統治権をロシアに認めた。
ツァルスコエ・セロ条約(1773年6月1日)により、ロシアとデンマーク=ノルウェーは同盟関係となった。また、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの統治権を得たことは、デンマーク=ノルウェーのユトレヒト半島領地の安定につながった。
1788-1790.8.14 第一次ロシア・スウェーデン戦争, ヴァララの和約
ロシアとデンマーク=ノルウェーが同盟関係にあったため、スウェーデンはロシアの内政干渉に苦しんでいた。
1787年に、ロシアの黄金のオルド(クリミア・ハン国)併合に反対するオスマン帝国が宣戦布告して戦争が勃発した(露土戦争(1787年〜1791年12月29日ヤッシー条約))。これを好機として、スウェーデン王グスタフ3世は「ロシア軍がフィンランドとの国境を越えてスウェーデン守備兵に攻撃を加えた」との理由で1788年にロシアとの戦争を開始した(第一次ロシア・スウェーデン戦争(1788年〜1790年8月14日ヴァララの和約))。
露土戦争との二正面作戦を強いられたロシアは本格的な攻勢に出にくく、1790年7月にスウェーデン艦隊がロシアのバルチック艦隊に勝利して(フィンランド湾の海戦)、1790年8月14日にスウェーデンの勝利で講和した(ヴァララの和約)。しかし、領土の変更はなかった。
この勝利によりスウェーデンは国際的地位を高め、かつ、1791年10月19日にフランスを仮想敵国とする(フランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)は既に勃発していた)相互援助を定めた軍事同盟を結ぶことに成功した。
1779.3.11-1783.9.3 ARW 第一次武装中立同盟
アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)中に、イギリスは対米海上封鎖のため、中立国船舶の捕獲を宣言した。これに対し1778年にスウェーデンが中立国船舶の保護を訴え、翌1779年3月11日にロシアのエカチェリーナ2世が中立国船舶の航行の自由を訴えると同時に武装中立同盟の結成を呼び掛けた。
ロシアと、ロシアの呼びかけに応えたスウェーデン、デンマーク=ノルウェーにより第一次武装中立同盟(First League of Armed Neutrality)が結成された。
1781年にはプロシア、オーストリア、ポルトガルが参加し、1782年にはオスマン帝国が、1783年にはナポリ王国が参加した。
イギリスはフランス、スペイン、オランダと交戦中であり、ロシア、スウェーデン、デンマーク=ノルウェー、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国が第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加したため、国際的に孤立した状態でアメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)後半を戦うこととなった。
1800-18014.2 NBW 第二次武装中立同盟
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)と、直後にはじまったマルタ包囲戦(1798年〜1800年)の結果、イギリスによるマルタ諸島の占領統治がはじまった。地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となったことは、地中海を含むヨーロッパの通商環境における大きな変化だった。
イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが反対し、1800年中に第二次武装中立同盟(Second League of Armed Neutrality)を結成した。
第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)が原因となって、イギリスとデンマーク=ノルウェーは対立し、1807年にはデンマーク=ノルウェーがフランスと同盟することになる。ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征も、マルタ征服も失敗に終わったが、意外な形で同盟国を獲得することにつながったわけだ。
1805.10.31-1810.1.6 NBW ポメラニア戦争, パリ条約
1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告して「フランス革命戦争」がはじまって以来、スウェーデンは中立を保っていた。しかし、1804年にフランスとの国交を断絶し、イギリスがスウェーデン領ポメラニアを軍事拠点として利用することを認めた。
1805年8月9日にスウェーデンは第三次対仏大同盟に参加し、1805年10月31日にスウェーデンがフランスに宣戦布告してポメラニア戦争(Franco-Swedish War、1805年10月31日〜1810年1月6日パリ条約)が勃発した。
スウェーデンは第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)に敗北したため、1810年1月6日にロシアの仲介でフランスの勝利で講和し、スウェーデンは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した(パリ条約)。これにより、スウェーデンは第四次対仏大同盟から離脱した。
1808.2-1809.9.17 NBW 第二次ロシア・スウェーデン戦争, フレデリクスハムンの和約
1807年7月7日にロシアとフランスが講和し、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させることと、その見返りにフランスはロシアがフィンランドを獲得することを容認することが約束された(ティルジットの和約)。1808年2月にロシアがフィンランドに侵攻して第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)が勃発した。
1809年9月17日にロシアの勝利で講和し、スウェーデンはフィンランド全土とオーランド諸島を割譲した(フレデリクスハムンの和約)。これにより、ロシアの保護国フィンランド大公国(1809年9月17日〜1917年12月6日ロシアから独立)が成立した。ちなみに、スウェーデンはイギリス・ポルトガルと同盟関係にあった(第三次・第四次対仏大同盟)が、フィンランドをめぐる地上戦には、なんら有効な支援を受けることはできなかった。
1810.1.7-1812.7.18 NBW イギリス・スウェーデン戦争, エレブルー条約
1810年1月7日にパリ条約(1810年1月6日)に基づいてスウェーデンがイギリスに宣戦布告して、イギリス・スウェーデン戦争(1810年1月7日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。
直接の大規模な軍事衝突は起こらないまま、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))していた。
1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発後の1812年7月18日に、公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。
1807.10.26-1812.7.18 NBW 英露戦争, エレブルー条約
1807年7月7日にロシアとフランスが講和し、ロシアがイギリスへ宣戦布告することが約束された(ティルジットの和約)。1807年10月26日に、コペンハーゲン砲撃(1807年9月2日〜7日)を理由としてロシアがイギリスに宣戦布告して英露戦争(1807年10月26日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。
イギリスとロシアは、第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)、露土戦争(1806年〜1812年5月28日ブカレスト条約)、第一次ロシア・ペルシア戦争 (1804年〜1813年10月24日ゴレスターン条約)で敵対したが、ロシアはいずれの戦争においても勝利を収めた。
ロシアは、スウェーデンからはフィンランド全土とオーランド諸島を獲得(1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)し、オスマン帝国からはドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)を獲得(1812年5月28日ブカレスト条約)し、ペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))からは南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)の一部を獲得(1813年10月24日ゴレスターン条約)した。
ロシア軍とイギリス軍の直接の大規模な軍事衝突は起こらないまま、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))していた。
1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発後の1812年7月18日に、公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。
1812.6.24-12.14 NBW 1812年ロシア戦役
ティルジットの和約(1807年7月7日に露仏が講和)の取決めを実行に移していったロシアであった(1809年10月14日のオーストリアとフランスの講和条約では、オーストリアはロシアに東部ガリツィアを割譲(シェーンブルンの和約))が、1810年に大陸封鎖令を無視してイギリスとの通商を再開した。
ロシアに大陸封鎖令遵守を求めるナポレオン・ボナパルトの指示でフランス帝国の大陸軍がロシアの旧ポーランド領に侵攻して戦争が勃発した(1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日))。ロシア軍は焦土作戦を展開しながら撤退を繰り返し、大陸軍は9月14日にはモスクワを陥落させていたが、ロシア軍はモスクワをも焼き払って退却していたため食料を得られなかった。1ヶ月ほど駐留する間にもロシア軍の攻撃を受けて大陸軍は兵数を減らし、10月19日に退却を開始した。
ロシアの戦略により、大陸軍の退却路は既に焦土化された往路と同じスモレンスク街道であり、大陸軍は食料補給ができなかった。フランス軍の軍馬の飼料も補給できず、軍馬の大半が餓死するか兵士の食糧として殺された。この結果、大陸軍の騎兵は徒歩で退却線を戦うこととなり、大陸軍の大砲と荷馬車も廃棄せざるを得なかった。コサック騎馬兵を含むロシア軽騎兵隊は絶えず追撃を行い、脱走兵はロシア人の民兵に殺された。12月14日に大陸軍がロシア領内から駆逐される頃には、侵攻時に60万人以上いた将兵は約2万人にまで減らされていた。
1814.1.14 NBW キール条約によりスウェーデンがノルウェー獲得
1807年からフランスと同盟していたデンマーク=ノルウェーに対し、1813年12月にスウェーデン軍がユトレヒト半島のホルシュタインに侵攻した。
1814年1月14日にスウェーデンの勝利で講和し、デンマーク=ノルウェーはノルウェーを割譲した(キール条約)。ただし、ノルウェー領であったアイスランド、グリーンランド、フェロー諸島はデンマークの領土として残された。またスウェーデンは交換に、スウェーデン領ポメラニアをデンマーク=ノルウェーに割譲することを約した。
しかし、ウィーン議定書(1815年6月9日)によりスウェーデン領ポメラニアはプロシアが獲得することとなってしまった。
1814.7.26-8.14 NBW スウェーデン・ノルウェー戦争
キール条約(1814年1月14日)締結を知るとノルウェーで反乱が起こり、1814年5月17日にノルウェーが独立を宣言した。1814年7月26日にスウェーデン艦隊がノルウェー軍に攻撃を仕掛けて戦争が勃発した(スウェーデン・ノルウェー戦争(1814年7月26日〜8月14日モス条約))。
1814年8月14日にスウェーデンの勝利で講和し、スウェーデン王カール13世がノルウェー王に即位した(モス条約)。
1815.6.9 NBW プロシアのスウェーデン領ポメラニア獲得
1815年6月9日にプロシアはスウェーデン領ポメラニアを獲得した(ウィーン議定書)。
スウェーデン領ポメラニアは、デンマーク=ノルウェーがノルウェー(ただし、アイスランド、グリーンランド、フェロー諸島は除く)をスウェーデンに割譲するのと交換に、スウェーデンがデンマーク=ノルウェーに割譲することに合意していた(1814年1月14日キール条約)ものだった。
1905.6.7 ノルウェー独立宣言
1905年6月7日にノルウェー王国はスウェーデン=ノルウェー連合王国からの独立を宣言した。
スウェーデン王国は一時反発したが、1905年10月26日に独立を承認した。スウェーデン=ノルウェー連合王国は1814年8月14日(モス条約)から同君連合だった。
2022.5 フィンランドとスウェーデンがNATO加盟意向を表明
ロシアによるウクライナ侵攻を受け、2022年5月15日にフィンランドが、翌5月16日にスウェーデンが、NATO加盟申請を正式に表明した。
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