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デンマーク王国 1397-the present

執筆者の写真: 四々縦七四々縦七

デンマーク王国の建国は8世紀頃と言われているが、1397年にデンマークを盟主にして、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3ヶ国による王国同盟が結ばれた(カルマル同盟(1397年〜1523年6月6日))。デンマーク王国は、スウェーデン王国とノルウェー王国を従え、フィンランドの一部も領地とする大国だった。


デンマーク=ノルウェー二重王国 1523.6.6-1814.1.14

1523年6月6日にスウェーデン王国がカルマル同盟(1397年〜1523年6月6日)から独立すると、デンマーク=ノルウェー二重王国(1523年6月6日〜1814年1月14日)が成立した。


デンマーク=ノルウェーは、トルステンソン戦争(1643年〜1645年2月8日ブレムセブルー条約)でスウェーデンに敗北し、ノルウェー領の一部とデンマーク領のゴットランド島を割譲し、エーレスンド海峡(シェラン島とスカンジナビア半島南部の間の海峡で北海とバルト海を結ぶ)の自由通航権を与えて講和した(ブレムセブルー条約)。この敗戦によりスウェーデンにバルト海の覇権を握らせ、デンマーク=ノルウェーの国際的地位は低下した。


【アメリカ革命戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)】

デンマーク=ノルウェーは、ロシア、スウェーデン、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国とともに第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加した。フランス、スペイン、オランダと交戦中だったイギリスは、国際的に孤立した状態でアメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)後半を戦うこととなり、敗北した。


【フランス革命戦争・ナポレオン戦争(1792年4月20日〜1815年11月20日)】

デンマーク=ノルウェーはフランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)にも中立を保った。


ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)がはじまっても、デンマーク=ノルウェーは中立を保っていた。しかし、フランスがデンマーク=ノルウェー艦隊を入手すればイギリス艦隊の制海権を脅かす恐れが大きかった。そんな折、イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に反対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)を結成した。


これが引き金となって、1801年4月2日にイギリス艦隊がデンマーク=ノルウェー艦隊の艦船15隻を破壊・捕獲した(コペンハーゲンの海戦(First Battle of Copenhagen))。デンマーク=ノルウェーは第二次武装中立同盟(1800年〜1801年)から脱退し、当該同盟も崩壊した。


1806年11月21日にフランスが大陸封鎖令を発令するとイギリスの懸念は再燃し、イギリスはデンマーク=ノルウェー艦隊の引渡しを条件としてデンマーク=ノルウェーに同盟を持ち掛けた。デンマーク=ノルウェーがこれを拒絶すると、1807年9月2日から5日にかけてイギリス艦隊がコペンハーゲン市街地を砲撃した(コペンハーゲン砲撃(Second Battle of Copenhagen))。デンマーク=ノルウェーは9月7日に降伏し、10月中にイギリス艦隊はデンマーク=ノルウェー艦隊の艦船を没収して撤退した。


デンマーク=ノルウェーはこれ以上の中立政策は採り得ず、同年中にフランスと同盟関係を結んだ。


ナポレオン・ボナパルトがロシアに敗北(1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日))すると、1813年3月17日にはプロシアが、8月11日にはオーストリアがフランスに宣戦布告して、第六次対仏大同盟に合流した。


ロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍がフランス軍を追い詰め、ナポレオン・ボナパルトはライプツィヒにフランス軍を集結させた。ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日)でフランス軍が敗北すると、ロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍はフランス本土への侵攻を開始した。


一方で、1807年からフランスと同盟していたデンマーク=ノルウェーに対し、1813年12月にスウェーデン軍がユトレヒト半島のホルシュタインに侵攻した。1814年1月14日にスウェーデンの勝利で講和し、デンマーク=ノルウェーはノルウェーを割譲した(キール条約)。ただし、ノルウェー領であったアイスランド、グリーンランド、フェロー諸島はデンマークの領土として残された。またスウェーデンは交換に、スウェーデン領ポメラニアをデンマーク=ノルウェーに割譲することを約した。


1815年6月9日にスウェーデンのノルウェー獲得は承認されたが、スウェーデン領ポメラニアはプロシアに横取りされてしまった(ウィーン議定書)。フランス革命戦争・ナポレオン戦争中にデンマークはイギリスに二度スウェーデンに一度敗北し、唯一のフランスの同盟国としてナポレオン戦争の敗戦国に名を連ね、ノルウェーを失った単一王国としてウィーン体制を迎えた。


デンマーク王国 1814.1.14-the present

【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】

デンマーク王国は、第一次世界大戦では中立を保った。


アイスランドが、1918年にアイスランド王国として独立(同君連合)し、1944年6月17日にアイスランド共和国として完全な独立を果たした。


【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】

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【米ソ冷戦(1945年2月4日〜1989年12月3日)以降】

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現在のデンマーク王国の領土

自治権を有するグリーンランドとフェロー諸島と共に構成しているデンマーク王国(1814年1月14日〜)の領土は、ユトレヒト半島とシェラン島を中心としていて、南をドイツと国境を接し、エーレスンド海峡の対岸にはスウェーデンが位置する。東にはバルト海を擁し、西には北海が広がる。


ちなみに、首都コペンハーゲンはシェラン島にあり、大陸部分に領土があるのに首都が島にある国は、デンマーク王国のほかにはと赤道ギニア(首都マラボはギニア湾のビオコ島にある)だけだ。

デンマーク王国の国旗
デンマーク王国の国旗

1643-1645.2.8 トルステンソン戦争

1645年2月8日にスウェーデン王国はデンマーク=ノルウェー二重王国に勝利して講和し、ノルウェー領の一部とデンマーク領のゴットランド島を割譲し、エーレスンド海峡(シェラン島とスカンジナビア半島南部の間の海峡で北海とバルト海を結ぶ)の自由通航権を獲得した(ブレムセブルー条約)。


この戦争(トルステンソン戦争(1643年〜1645年2月8日ブレムセブルー条約))に勝利したことで、スウェーデンはバルト海の覇権を握り、反対にデンマーク=ノルウェーの国際的地位は低下した。


1700-1721.9.10 大北方戦争, ニスタット条約

17世紀当時のスウェーデンは、フィンランド湾沿岸一帯(北から時計回りに、フィンランド・カレリア(ラドガ湖北岸一帯)・イングリア・エストランド(現エストニア領)・ヒーウマー島・サーレマー島)とスウェーデン領リヴォニア(現ラトビア領)そしてスウェーデン領ポメラニアを領有して、バルト海の覇権を握っていた。


1700年に勃発した大北方戦争(〜1721年)においては、スウェーデンとロシア・デンマーク=ノルウェー・ザクセンからなる反スウェーデン同盟などが争った。


1721年9月10日にロシアが勝利して講和し、スウェーデンはカレリア(ラドガ湖北岸一帯)の大半・イングリア・エストランド(現エストニア領)・ヒーウマー島・サーレマー島そしてスウェーデン領リヴォニア(現ラトビア領)を割譲した(ニスタット条約)。ロシアはフィンランド湾を経由してバルト海に出ることが可能となり、ネヴァ川河口には、戦時中の1703年5月27日からサンクトペテルブルクの建設も始まった。


この戦争(大北方戦争(1700年〜1721年9月10日ニスタット条約))を境にしてバルト海の覇権はロシアに移ることになり、1721年11月2日には戦勝を記念してピョートル1世が皇帝に即位した(ロシア帝国の成立)。


1773.6.1 ツァルスコエ・セロ条約

1773年6月1日にロシアはデンマーク=ノルウェーがシュレースヴィヒ・ホルシュタインを統治することを認めた(ツァルスコエ・セロ条約(Treaty of Tsarskoye Selo))。デンマーク=ノルウェーは代わりに神聖ローマ帝国の所領の統治権をロシアに認めた。


ツァルスコエ・セロ条約(1773年6月1日)により、ロシアとデンマーク=ノルウェーは同盟関係となった。また、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの統治権を得たことは、デンマーク=ノルウェーのユトレヒト半島領地の安定につながった。


1779.3.11-1783.9.3 ARW 第一次武装中立同盟

アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)中に、イギリスは対米海上封鎖のため、中立国船舶の捕獲を宣言した。これに対し1778年にスウェーデンが中立国船舶の保護を訴え、翌1779年3月11日にロシアのエカチェリーナ2世が中立国船舶の航行の自由を訴えると同時に武装中立同盟の結成を呼び掛けた。


ロシアと、ロシアの呼びかけに応えたスウェーデン、デンマーク=ノルウェーにより第一次武装中立同盟(First League of Armed Neutrality)が結成された。


1781年にはプロシア、オーストリア、ポルトガルが参加し、1782年にはオスマン帝国が、1783年にはナポリ王国が参加した。


イギリスはフランス、スペイン、オランダと交戦中であり、ロシア、スウェーデン、デンマーク=ノルウェー、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国が第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加したため、国際的に孤立した状態でアメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)後半を戦うこととなった。


1798-1800 NBW マルタ包囲戦・イギリスのマルタ諸島占領

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)によりフランスによるマルタ諸島の占領統治がはじまったが、数ヶ月のうちにマルタ島住民による反乱が起きた。


マルタ島住民は、イギリス・ポルトガル・ナポリ王国の支援を受けて、約2年間にわたってフランス守備隊を包囲し、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)がはじまって間もない1800年にフランス守備隊はイギリス軍に降伏した。


これにより今度はイギリスがマルタ諸島の占領統治を開始し、地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となった。また、フランスのエジプト遠征軍は補給路を断たれることになった。


1800-18014.2 NBW 第二次武装中立同盟

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)と、直後にはじまったマルタ包囲戦(1798年〜1800年)の結果、イギリスによるマルタ諸島の占領統治がはじまった。地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となったことは、地中海を含むヨーロッパの通商環境における大きな変化だった。


イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが反対し、1800年中に第二次武装中立同盟(Second League of Armed Neutrality)を結成した。


第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)が原因となって、イギリスとデンマーク=ノルウェーは対立し、1807年にはデンマーク=ノルウェーがフランスと同盟することになる。ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征も、マルタ征服も失敗に終わったが、意外な形で同盟国を獲得することにつながったわけだ。


1801.4.2 NBW コペンハーゲンの海戦

イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に反対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)を結成した。これが引き金となって、1801年4月2日にイギリス艦隊がデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船15隻を破壊・捕獲した(コペンハーゲンの海戦(First Battle of Copenhagen))。


デンマーク=ノルウェー二重王国は第二次武装中立同盟(1800年〜1801年)から脱退し、当該同盟も崩壊した。イギリスの制海権確保にとって、フランスがデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。


1806.11.21 NBW 大陸封鎖令の発令

1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令した。ベルリン勅令とも言われる。


イギリスとの通信・通商を禁じる内容で、具体的にはフランス帝国及び同盟国領内におけるイギリス人を戦争捕虜とし、イギリスの物資・商品を押収し、イギリスないしイギリス植民地から渡航した船舶はその積荷と共に接収するという内容だ。しかし、事実上はヨーロッパ諸国のイギリスとの交易をフランスとの交易に強制的に切り替えさせる狙いを持った経済政策だった。


この大陸封鎖令(1806年11月21日)の発令はナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)の大きな分岐点であり、結果論だが半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)と1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)の勃発の原因をナポレオン・ボナパルトみずから作り出した。そして、この2つの遠征に失敗することでフランス第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)は滅亡することになる。


1806年5月16日にイギリスがブレストからエルベ川河口までの全港湾の海上封鎖を決めたことに対抗して、ナポレオン・ボナパルトは「イギリスは封鎖された」と宣言したわけだから、本来はイギリス封鎖令と呼ばれるべきものだった。しかし、制海権のないフランスには「イギリス港湾の海上封鎖」は実行不可能だった。


1805.10.31-1810.1.6 NBW ポメラニア戦争, パリ条約

1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告して「フランス革命戦争」がはじまって以来、スウェーデンは中立を保っていた。しかし、1804年にフランスとの国交を断絶し、イギリスがスウェーデン領ポメラニアを軍事拠点として利用することを認めた。


1805年8月9日にスウェーデンは第三次対仏大同盟に参加し、1805年10月31日にスウェーデンがフランスに宣戦布告してポメラニア戦争(Franco-Swedish War、1805年10月31日〜1810年1月6日パリ条約)が勃発した。


スウェーデンは第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)に敗北したため、1810年1月6日にロシアの仲介でフランスの勝利で講和し、スウェーデンは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した(パリ条約)。これにより、スウェーデンは第四次対仏大同盟から離脱した。


1807.9.2-9.5 NBW コペンハーゲン砲撃【デンマーク=ノルウェーが仏と同盟】

1806年11月21日にフランスが大陸封鎖令を発令すると、イギリスはデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の引渡しを条件としてデンマーク=ノルウェー二重王国に同盟を持ち掛けた。デンマーク=ノルウェー二重王国がこれを拒絶すると、1807年9月2日から5日にかけてイギリス艦隊がコペンハーゲン市街地を砲撃した(コペンハーゲン砲撃(Second Battle of Copenhagen))。


デンマーク=ノルウェー二重王国は9月7日に降伏し、10月中にイギリス艦隊はデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船を没収して撤退した。


デンマーク=ノルウェー二重王国はこれ以上の中立政策は採り得ず、同年中にフランスと同盟関係を結んだ。


1812.6.24-12.14 NBW 1812年ロシア戦役

ティルジットの和約(1807年7月7日に露仏が講和)の取決めを実行に移していったロシアであった(1809年10月14日のオーストリアとフランスの講和条約では、オーストリアはロシアに東部ガリツィアを割譲(シェーンブルンの和約))が、1810年に大陸封鎖令を無視してイギリスとの通商を再開した。


ロシアに大陸封鎖令遵守を求めるナポレオン・ボナパルトの指示でフランス帝国の大陸軍がロシアの旧ポーランド領に侵攻して戦争が勃発した(1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日))。ロシア軍は焦土作戦を展開しながら撤退を繰り返し、大陸軍は9月14日にはモスクワを陥落させていたが、ロシア軍はモスクワをも焼き払って退却していたため食料を得られなかった。1ヶ月ほど駐留する間にもロシア軍の攻撃を受けて大陸軍は兵数を減らし、10月19日に退却を開始した。


ロシアの戦略により、大陸軍の退却路は既に焦土化された往路と同じスモレンスク街道であり、大陸軍は食料補給ができなかった。フランス軍の軍馬の飼料も補給できず、軍馬の大半が餓死するか兵士の食糧として殺された。この結果、大陸軍の騎兵は徒歩で退却線を戦うこととなり、大陸軍の大砲と荷馬車も廃棄せざるを得なかった。コサック騎馬兵を含むロシア軽騎兵隊は絶えず追撃を行い、脱走兵はロシア人の民兵に殺された。12月14日に大陸軍がロシア領内から駆逐される頃には、侵攻時に60万人以上いた将兵は約2万人にまで減らされていた。


1814.1.14 NBW キール条約によりスウェーデンがノルウェー獲得

1807年からフランスと同盟していたデンマーク=ノルウェーに対し、1813年12月にスウェーデン軍がユトレヒト半島のホルシュタインに侵攻した。


1814年1月14日にスウェーデンの勝利で講和し、デンマーク=ノルウェーはノルウェーを割譲した(キール条約)。ただし、ノルウェー領であったアイスランド、グリーンランド、フェロー諸島はデンマークの領土として残された。またスウェーデンは交換に、スウェーデン領ポメラニアをデンマーク=ノルウェーに割譲することを約した。


しかし、ウィーン議定書(1815年6月9日)によりスウェーデン領ポメラニアはプロシアが獲得することとなってしまった。


1815.6.9 NBW プロシアのスウェーデン領ポメラニア獲得

1815年6月9日にプロシアはスウェーデン領ポメラニアを獲得した(ウィーン議定書)。


スウェーデン領ポメラニアは、デンマーク=ノルウェーがノルウェー(ただし、アイスランド、グリーンランド、フェロー諸島は除く)をスウェーデンに割譲するのと交換に、スウェーデンがデンマーク=ノルウェーに割譲することに合意していた(1814年1月14日キール条約)ものだった。

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