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ネーデルラント(オランダ)王国(連邦共和国) 1579-1795, 1815.3.16-the present

執筆者の写真: 四々縦七四々縦七

ネーデルラント連邦共和国 1579.1.23-1648.10.24-1795.1.19

1579年1月23日にユトレヒト同盟を結成したのが、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日ユトレヒト同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜1795年1月19日)の起源とされている。また、スペイン王フェリペ2世の統治権を否定する宣言をした1581年7月26日が独立記念日とされている。


1648年10月24日にネーデルラント連邦共和国の独立が承認された(ウェストファリア条約(八十年戦争(1868年〜1648年10月24日)の講和条約)。


【アメリカ革命戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)】

アメリカ革命戦争中に、イギリスは対米海上封鎖のため、中立国船舶の捕獲を宣言した。これに対し、1779年3月11日にロシア・スウェーデン・でンマーク=ノルウェーにより第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)が結成された(後に、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国も参加した)。


1780年12月、オランダも第一次武装中立同盟に参加することをおそれたイギリスがオランダに宣戦布告して戦争が勃発し、オランダは敗北した(第四次英蘭戦争(1780年12月〜1784年5月20日パリ条約))。孤立したイギリスに、アメリカもフランスもスペインも勝ったのに、同盟国でもないオランダだけが敗戦国となってしまった。


【フランス革命戦争・ナポレオン戦争(1792年4月20日〜1815年11月20日)】

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)がはじまった翌年1793年2月1日にフランスはオランダとイギリスに宣戦布告した。1793年末からフランスが反攻に転じ、フランス軍は領内からオーストリア軍・プロシア軍を撤退させたうえ、オーストリア領ネーデルラントとラインラントを占領した。1794年にはフランス軍はオランダ領内にも侵攻し、オランダ軍とイギリス遠征軍への攻撃を開始した。


1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日ユトレヒト同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜1795年1月19日)が滅亡した。同年中にイギリスは、ケープ植民地などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。また、1799年8月27日にはイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻した。


1813年にプロシア・ロシア連合軍によって、旧ネーデルラント連邦共和国および旧オーストリア領ネーデルラントがフランス軍から解放された。11月20日には、ネーデルラント連合公国が成立し、12月2日にオラニエ=ナッサウ家のウィレム1世が亡命先から帰国するとネーデルラント連合公国はウィレム1世に君主の称号を贈り、ウィレム1世が即位した。


1814年8月13日にオランダ領東インドがイギリスから返還され、併せてイギリスのセイロン島とケープ植民地の領有を確認した(ロンドン条約)。


ネーデルラント連合王国(オラニエ=ナッサウ家) 1815.3.16-1839.4.19

【ポスト・ナポレオン戦争】

ウィーン会議(1814年7月〜1815年6月9日)が開催されているなか、1815年3月16日にオラニエ=ナッサウ家のウィレム1世がネーデルラント王(オランダ王)に即位して、ネーデルラント連合王国が成立した。1815年6月9日にネーデルラント連合王国は、旧ネーデルラント連邦共和国領を回復し、オーストリアから南ネーデルラント(旧ルクセンブルク公領の大部分を含む)を獲得した(ウィーン議定書)。なお、旧ルクセンブルク公領はルクセンブルク大公国とされてドイツ連邦にも加盟し、ネーデルラント王(オランダ王)が大公を兼ねることになった。


フランス革命戦争・ナポレオン戦争中、ネーデルラント連邦共和国は滅亡し、衛星国家バタヴィア共和国、衛星国家ホラント王国とされたうえで、1810年7月9日にフランス第一帝政に併合されたが、1815年3月16日にネーデルラント連合王国として復活したうえオーストリアから南ネーデルラントを獲得して領土を拡大してウィーン体制を迎えた。


1824年3月17日にオランダがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を領有するという形で植民地交換することで合意した(英蘭協約)。


ネーデルラント王国(オラニエ=ナッサウ家) 1839.4.19-the present

【ポスト・ナポレオン戦争】

1830年8月25日にベルギー革命戦争(1830年8月25日〜1839年4月19日)が勃発し、1839年4月19日にベルギーの独立を承認した。


1871年11月2日にイギリスはスマトラ島全域をオランダ領東インドの統治下に置くことを承認し、代わりにイギリスにオランダ領黄金海岸を割譲した(スマトラ条約)。1873年にアチェ戦争(1873年〜1904年)が勃発して、1904年までに黒胡椒や石油などの天然資源が豊富な旧アチェ・スルターン領をオランダ領東インドに組み入れることに成功した。


【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】

ネーデルラント王国は、第一次世界大戦では中立を保った。


【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】

To Come


現在のネーデルラント王国の領土

カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にネーデルラント王国(オランダ王国)を構成している。それ以外にも、カリブ海に海外特別自治領としてBES諸島と呼ばれる、ボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島がある。


現在のネーデルラント王国(オランダ王国)の本土は、北に北海に臨み、ドイツとベルギーと国境を接している。


2020年1月1日にネーデルラント王国は国名としての「ホラント」の使用を廃止し、諸外国にこの通称から変更するよう呼びかけている。日本の「オランダ」という呼称については、日本語の言葉として定着していることから変更は求めないとしているそうだ(参照URL:「オランダ」の国名が消えるの? 大使館に聞いてみた。(ハフポスト 2020年1月20日) )。

ネーデルラント(オランダ)王国の国旗
ネーデルラント(オランダ)王国の国旗

1779.3.11-1783.9.3 ARW 第一次武装中立同盟

アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)中に、イギリスは対米海上封鎖のため、中立国船舶の捕獲を宣言した。これに対し1778年にスウェーデンが中立国船舶の保護を訴え、翌1779年3月11日にロシアのエカチェリーナ2世が中立国船舶の航行の自由を訴えると同時に武装中立同盟の結成を呼び掛けた。


ロシアと、ロシアの呼びかけに応えたスウェーデン、デンマーク=ノルウェーにより第一次武装中立同盟(First League of Armed Neutrality)が結成された。


1781年にはプロシア、オーストリア、ポルトガルが参加し、1782年にはオスマン帝国が、1783年にはナポリ王国が参加した。


イギリスはフランス、スペイン、オランダと交戦中であり、ロシア、スウェーデン、デンマーク=ノルウェー、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国が第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加したため、国際的に孤立した状態でアメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)後半を戦うこととなった。


1780.12-1784.5.20 ARW 第四次英蘭戦争, パリ条約

オランダが第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加することをおそれて、1780年12月にイギリスがオランダに宣戦布告して戦争が勃発した(第四次英蘭戦争(1780年12月〜1784年5月20日パリ条約))。


オランダ艦隊はイギリス艦隊の敵ではなく、1784年5月20日にイギリスの勝利で講和し、オランダはインドのナーガパッティナムを割譲し、オランダ領東インドにおける自由貿易権を認めさせられた(パリ条約(Peace of Paris (1783)))。


1795.1.19 FRW 衛星国家バタヴィア共和国の成立【ネーデルラント連邦共和国の滅亡】

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)がはじまった翌年1793年2月1日にフランスはオランダとイギリスに宣戦布告した。


1793年末からフランスが反攻に転じ、フランス軍は領内からオーストリア軍・プロシア軍を撤退させたうえ、オーストリア領ネーデルラントとラインラントを占領した。1794年にはフランス軍はオランダ領内にも侵攻し、オランダ軍とイギリス遠征軍への攻撃を開始した。


1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日ユトレヒト同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜1795年1月19日)が滅亡した。1795年5月16日にバタヴィア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成し、バタヴィアはフランスに低利子の大借款を提供した(ハーグ条約)。


1806年6月5日にフランスの衛星国家ホラント王国(1806年6月5日〜1810年7月9日)に移行し、1810年7月9日にフランス第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)に併合された。


なお、ネーデルラント連邦共和国と共に第一次対仏大同盟に参加していたイギリスは、バタヴィア共和国が成立するとすぐに、ケープ植民地などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。


1796 FRW イギリス領セイロンの成立

1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。


1795年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻した。8月にトリンコマリーを制圧し、1796年2月にコロンボを制圧して、バタヴィア共和国の全拠点の制圧を完了した。


イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)は、アミアンの和約(1802年3月25日)でもバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、1815年6月9日に正式にイギリスに割譲された(ウィーン議定書)。


1799.8.27-11.19 FRW 英露艦隊のネーデルラント遠征

1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立した。イギリスの制海権確保にとって、フランスが旧ネーデルラント連邦共和国の艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。


1799年8月27日にイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻した。フランス・バタヴィア連合軍の勝利で、11月19日にはイギリス・ロシア連合艦隊は撤退したが、バタヴィア艦隊(旧ネーデルラント連邦共和国艦隊)の大部分の鹵獲に成功したため、イギリスの当初の目的は達せられた。


1806 NBW イギリス領ケープ植民地の成立

1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地やセイロン島などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。


1795年中にイギリス軍はケープ植民地を制圧・占領していたが、1802年3月25日にイギリスとフランスが講和し、ケープ植民地をバタヴィア共和国に返還していた(アミアンの和約)。


しかし、1803年5月16日にイギリスはアミアンの和約を破棄して再度フランスへ宣戦布告し、ケープ植民地についても1806年にブラーウベルグの戦い(Battle of Blaauwberg、1806年1月8日〜18日)に勝利したイギリス軍により再占領されて、イギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)が成立した。


1814.8.13 NBW ロンドン条約【英蘭交渉】

1814年8月13日にイギリスはネーデルラント連合公国(ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)の前身)に、オランダ領東インドをネーデルラント(オランダ)に返還することに合意した(ロンドン条約)。


また、ネーデルラント連合公国はイギリスのセイロン島とケープ植民地の領有を確認し、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)とイギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)を承認した。


1815.3.2 キャンディ王国の保護国化, イギリス領セイロンへの組み入れ

1815年3月2日にイギリスはキャンディ王国(1469年〜1815年3月2日)を保護国化した(キャンディ条約)。


キャンディ王国の領地もイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)に組み込まれ、イギリスの植民地統治がセイロン島全域に及ぶようになった。


フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻・占領して、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)が成立していた。


1815.3.16 NBW ネーデルラント連合王国の成立

1813年にプロシア・ロシア連合軍によって、旧ネーデルラント連邦共和国および旧オーストリア領ネーデルラントがフランス軍から解放された。11月20日には、ネーデルラント連合公国(the Sovereign Principality of the United Netherlands)が成立した。


12月2日にオラニエ=ナッサウ家のウィレム1世が亡命先から帰国すると、ネーデルラント連合公国はウィレム1世に君主の称号を贈り、ウィレム1世が即位した。


1814年3月31日にはパリが陥落し、5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めた(第一次パリ条約)。


ウィーン会議(1814年7月〜1815年6月9日)が開催されているなか、1815年3月16日にウィレム1世がネーデルラント王(オランダ王)に即位して、ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)が成立した。


1815年6月9日にネーデルラント連合王国は、旧ネーデルラント連邦共和国領を回復し、オーストリアから南ネーデルラント(旧ルクセンブルク公領の大部分を含む)を獲得した(ウィーン議定書)。なお、旧ルクセンブルク公領はルクセンブルク大公国とされてドイツ連邦にも加盟し、ネーデルラント王(オランダ王)が大公を兼ねることになった。


1815.6.9 NBW イギリスのセイロン島獲得

1815年6月9日にイギリスはオランダからセイロン島を獲得した(ウィーン議定書)。


フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻・占領して、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)が成立しており、1815年3月2日にイギリスの植民地統治は全域に及んでいた(キャンディ条約)ものを、正式に割譲した。


イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)は、アミアンの和約(1802年3月25日)でもバタヴィア共和国への返還対象に含まれていなかった。


1819.2.6 イギリスによるシンガポール開港

1819年にトーマス・ラッフルズがジョホール・スルターン国(1528年〜現在)からシンガポール島を獲得した。1819年2月6日にシンガポールは開港した。


英蘭協約(1824年3月17日)によりイギリスのシンガポール島領有はオランダによっても承認された。


1824.3.17 英蘭協約

1824年3月17日にイギリスとネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)は、オランダ領東インドに関連して、イギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島を領有するという形で植民地交換することで合意した(英蘭協約)。


1826 イギリス領海峡植民地の成立

1826年にイギリス東インド会社は、マラッカ海峡に面しているマレー半島のペナン・マラッカとシンガポール島を併せて、イギリス領海峡植民地(Straits Settlements、1826年〜1946年4月1日)を成立させた。


オランダ東インド会社との競争に敗れて一旦はインド植民地の運営に集中したイギリス東インド会社だったが、フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中のフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)の成立を契機にして、オランダ領東インドに侵攻・占領していた。


ロンドン条約(1814年8月13日)でオランダ領東インドをネーデルラント連合公国(ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)の前身)に返還し、英蘭協約(1824年3月17日)でネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)とイギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島を領有するという形で植民地交換し、そして1826年にイギリス領海峡植民地を成立させて、大清帝国(1616年後金の成立、1644年チャイナ地域の支配開始、1912年2月12日滅亡)との交易の要路であるマラッカ海峡の安全な通航を確立した。


なお、1886年にココス島とクリスマス島が海峡植民地に編入され、1906年にラブアン島が海峡植民地に編入された。また、1942年2月15日には日本軍によってシンガポールが陥落した。


1830.8.25-1839.4.19 ベルギー革命戦争, ロンドン条約

隣国のフランスでは、フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)が七月革命(1830年7月27日〜29日)で倒され、フランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)がはじまっていた。


ベルギーでも1830年8月25日に暴動が起き、9月26日に臨時政府が設立され、10月4日に独立宣言が行なわれた。


ネーデルラント(オランダ)軍はベルギー軍を破った(十日戦争(1831年8月2日〜12日))が、12月20日にイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア・フランスがベルギー王国の独立を承認し(ロンドン会議(London Conference of 1830))、フランスはベルギーを軍事的にも支援したため、休戦せざるを得なかった。


1839年4月19日にベルギー・ネーデルラント(オランダ)・イギリス・ロシア・プロシア・オーストリア・フランスが、ベルギー王国の独立承認と永世中立国化で合意した(ロンドン条約)。


1871.11.2 スマトラ条約【英蘭交渉】

1871年11月2日にイギリスとネーデルラント(オランダ)王国(1839年4月19日〜現在)はスマトラ島について改めて協議し、イギリスがアチェ・スルターン国(1496年〜1903年)の独立を支持することを止め、スマトラ島全域をオランダ領東インドの統治下に置くことを承認し、代わりにネーデルラント(オランダ)王国がイギリスにアフリカ・ギニアのオランダ領黄金海岸を割譲することで同意した(スマトラ条約)。


スマトラ条約締結の翌々年1873年には、黒胡椒や石油などの天然資源が豊富なアチェ・スルターン国(1496年〜1903年)領土をオランダ領東インドに組み入れたいネーデルラント(オランダ)王国によって、アチェ戦争(1873年〜1904年)が勃発することになる。


ちなみに、オランダ領黄金海岸を統合したイギリス領黄金海岸(1921年〜1957年3月6日)は、1957年3月6日にガーナとして独立することになる。


1873-1904 アチェ戦争

1873年に、ネーデルラント(オランダ)王国とアチェ・スルターン国(1496年〜1903年)の間でアチェ戦争(1873年〜1904年)が勃発した。


アチェ・スルターン国のムハンマド・ダウド・シャーは1903年1月10日にネーデルラント(オランダ)軍に降伏した。


1904年までにネーデルラント(オランダ)軍は制圧を完了し、黒胡椒や石油などの天然資源が豊富なアチェ・スルターン国の領土をオランダ領東インドに組み入れることに成功した。

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