地政学を学ぶと、ポーランド人ほど戦争に苦しめられている人々はいないのではないかと考えてしまう。1795年から1807年の12年間と、1815年から1918年の103年間、すべての領土が他国に奪われてしまっているからだ。
2022年現在、1775年4月19日に現代世界史がはじまって約250年間が経つが、うち約45%の期間は国家がなかった計算である…
ポーランド・リトアニア共和国 1569.7.1-1795.10.24
1569年7月1日に、ポーランド王国(963年公国成立〜1025年王国成立〜1795年10月24日)は、リトアニア大公国(1251年〜1795年10月24日)を同君連合として統合(ルブリン合同)して、ポーランド・リトアニア共和国(正式名称:ポーランド王国およびリトアニア大公国。ポーランド第一共和政とも呼ばれる)を成立させた。
1772年8月5日に、プロシア・オーストリア・ロシアによって第一次ポーランド分割が行われた。
【アメリカ革命戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)】
1791年5月3日に、ポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパで最初の成文憲法を制定(世界でもアメリカ合衆国憲法(1788年6月21日公布・1789年5月4日施行)に次いで2番目)して、世界初の立憲君主制を採用した。
【フランス革命戦争(1792年4月20日〜1799年11月9日)】
立憲君主制に反対する国内抵抗勢力がロシアと結託して改革勢力に対抗していたが、フランス革命戦争が勃発したなか、1792年5月18日にロシアがポーランド・リトアニア共和国に侵攻して戦争が勃発した(ポーランド・ロシア戦争(1792年5月18日〜7月27日))。戦争中止後すぐに、ロシア・プロシアによって第二次ポーランド分割が行われた。
1795年10月24日に、プロシア・オーストリア・ロシアが残った領地すべてを3カ国で分割した(第三次ポーランド分割)ので、ポーランド・リトアニア共和国は領土をすべて失って滅亡した。
ワルシャワ公国 1807.7.9-1815.6.9
【ナポレオン戦争(1799年11月9日〜1815年11月20日)】
1807年7月9日にナポレオン・ボナパルトは、プロシアの旧ポーランド領に、ワルシャワ公国という名称でポーランドを復活させた(ティルジットの和約)。
ところが、1815年6月9日に、ワルシャワ公国の領地の大部分をポーランド立憲王国としてロシア皇帝が王を兼ね、領地の西部をポズナン大公国としてプロイセン王が大公を兼ね、南部の小さな領地をクラクフ共和国としてロシア・プロシア・オーストリア共同の保護国とした(ウィーン議定書)。
ワルシャワ公国は領土をすべて失って消滅した(第四次ポーランド分割)。
ポーランド第二共和国 1918.11.11-1939.10.6
【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)以降】
1918年11月11日に、ドイツ第二帝国と連合国の休戦協定が締結されて第一次世界大戦が終わった。同日をもって、ポーランド第二共和国が成立した。
【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】
To Come
【米ソ冷戦(1945年2月4日〜1989年12月3日)以降】
To Come
現在のポーランド共和国の領土
現在のポーランド共和国(1989年9月7日〜、ポーランド第三共和国とも言う)の領土は、北をバルト海に接し、時計回りにロシアの飛び地カリーニングラード州、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、スロバキア、チェコ、ドイツと国境を接している。

1772.8.5 第一次ポーランド分割
1772年8月5日に、プロシア・オーストリア・ロシアは、それぞれの国境に隣接するポーランド・リトアニア共和国(1569年7月1日〜1795年10月24日)の領地を獲得した(第一次ポーランド分割)。
1793.1.23 FRW 第二次ポーランド分割
1789年4月30日に、アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)に勝利したアメリカで、ジョージ・ワシントンが大統領に就任してアメリカ合衆国が成立した。同年7月14日にはフランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)が勃発した。
1791年5月3日に、ポーランド・リトアニア共和国(1569年7月1日〜1795年10月24日)はヨーロッパで最初の成文憲法を制定(世界でもアメリカ合衆国憲法(1788年6月21日公布・1789年5月4日施行)に次いで2番目)して、世界初の立憲君主制を採用した。
立憲君主制に反対する国内抵抗勢力がロシアと結託して改革勢力に対抗していたが、1792年4月20日にフランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)が勃発した。
この様な国内外の状況のなか、1792年5月18日にロシアがポーランド・リトアニア共和国に侵攻して戦争が勃発した(ポーランド・ロシア戦争(1792年5月18日〜7月27日))。ポーランド・リトアニア軍はロシア軍を領内に引き込む戦術を採って戦っていたが、国王が国内抵抗勢力と妥協してしまい防衛戦を継続できなくなってしまった。
戦争中止後すぐに、ロシア・プロシアはポーランド・リトアニア共和国の領地を獲得した(第二次ポーランド分割)。
1795.10.24 FRW 第三次ポーランド分割【ポーランド・リトアニア共和国の滅亡】
1795年10月24日に、プロシア・オーストリア・ロシアは、ポーランド・リトアニア共和国(1569年7月1日〜1795年10月24日)の残った領地すべてを3カ国で分割して獲得した(第三次ポーランド分割)。
ポーランド・リトアニア共和国は領土をすべて失って滅亡した。
1807.7.9 NBW ワルシャワ公国の建国【ポーランドの一時復活】
ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いたプロシアがバーゼル条約(1795年4月5日)以来の中立政策を改めて、1806年10月9日にフランスに宣戦布告した。
1806年10月14日にフランス軍はプロシア軍に壊滅的な打撃を与えて勝利し、10月25日にベルリンを制圧した。プロシア王は東プロシアに逃れてケーニヒスベルクを臨時首都としたところ、フランスもポーランドに進軍した。
アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)でフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に辛勝し、フリートラントの戦い(6月14日)でフランス軍はロシア軍に大打撃を与えて勝利した。1807年6月16日にはフランス軍が臨時首都ケーニヒスベルクを占領し、プロシアは降伏した。
1807年7月9日にフランスの勝利で講和し、プロシアは旧ポーランド領を割譲した(ティルジットの和約)。ナポレオン・ボナパルトは、プロシアの旧ポーランド領に、ワルシャワ公国(1807年7月9日〜1815年6月9日)という名称でポーランドを復活させた。
ポーランドは、1795年10月24日にロシア・プロシア・オーストリアによってなされた第三次ポーランド分割によって国土が消滅し、滅亡していた。
1809.4.9-10.14 NBW オーストリア戦役, シェーンブルンの和約
半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発してフランス軍がゲリラ戦に苦しんでいるのを見たオーストリアは、1809年4月9日に北イタリア・バイエルン・ワルシャワ公国の3方面へ同時侵攻した。
ところが、1809年5月12日にはナポレオン・ボナパルトがウィーンを占領される事態となってしまい、カール大帝がナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に敗北(ヴァグラムの戦い(1809年7月5日〜6日))すると停戦を申し入れざるを得なかった。1809年10月14日にオーストリアはフランスと講和し、ワルシャワ公国(1807年7月9日〜1815年6月9日)は北部ガリツィアを獲得した(シェーンブルンの和約)。
1815.6.9 NBW ワルシャワ公国の消滅(第四次ポーランド分割)
1815年6月9日に、ワルシャワ公国(1807年7月9日〜1815年6月9日)の領地の大部分をポーランド立憲王国としてロシア皇帝が王を兼ね、領地の西部をポズナン大公国としてプロイセン王が大公を兼ね、南部の小さな領地をクラクフ共和国としてロシア・プロシア・オーストリア共同の保護国とした(ウィーン議定書)。
ワルシャワ公国は領土をすべて失って消滅した(第四次ポーランド分割)。
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