1797年10月18日にオーストリアはフランスと講和し、オーストリア領ネーデルラントを割譲した。北イタリアにおいては、チザルピーナ共和国の独立を認めたうえで、ロンバルディアを割譲し、かつヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)の領地を分割した。またリグリア共和国の独立も認めた(カンポ・フォルミオ条約)。なお、分割したヴェネツィア共和国の領地のうちヴェネツィア・イストリア・ダルマチアはオーストリアに割譲された。
1796年3月27日に始まった第一次イタリア遠征(1796年3月27日〜1797年10月18日カンポ・フォルミオ条約)において、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍は、1796年5月10日にオーストリア軍を破り(ロディの戦い)、15日にミラノを占領してトランスパダーネ共和国(1796年5月21日〜1797年6月29日)の建国を宣言すると、オーストリア軍を追撃してヴェネツィア共和国に侵攻してアディジェ川までのヴェネツィア共和国領を占領し、1797年4月18日にオーストリアと休戦し、秘密裏にヴェネツィア共和国の領土分割に合意した(レオーベンの和約)。また、1796年11月15日にミラノ公国(1395年〜1796年11月15日)滅亡)をトランスパダーネ共和国に併合していたが、1797年6月29日にチザルピーナ共和国(1797年6月29日〜1802年1月26日)を建国して統合していた。
他方、1796年5月にフランス軍はジェノヴァを占領し、6月14日にリグリア共和国(1796年6月14日〜1805年6月4日)を建国(ジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)滅亡)していた。
という感じで瞬く間に北イタリアを席巻されてしまったオーストリアは、オーストリア領ネーデルラントも諦め、ヴェネツィアを除いて北イタリアをフランスの勢力圏とすることを認めて講和するしかなかった。オーストリア1敗目である。


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