フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)によりフランスによるマルタ諸島の占領統治がはじまったが、数ヶ月のうちにマルタ島住民による反乱が起きた。
マルタ島住民は、イギリス・ポルトガル・ナポリ王国の支援を受けて、約2年間にわたってフランス守備隊を包囲し、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)がはじまって間もない1800年にフランス守備隊はイギリス軍に降伏した。
これによりイギリス領マルタ植民地(1800年〜1964年9月21日)が成立し、地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となった。また、フランスのエジプト遠征軍は補給路を断たれることになった。

1798.7.3-1801 FRW フランスのエジプト遠征
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)の後半、フランス第一共和政(1792年9月21日〜1804年5月18日)はエジプトを支配下に収めて、対仏大同盟を主導するイギリスのインド植民地との連絡を絶とうとした。
ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍は、1798年7月3日にエジプトに上陸すると、アレクサンドリア、カイロを陥落させた。しかし、8月1日にイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊していたフランス艦隊が発見・攻撃され、大敗した。地中海の制海権を失ったフランス軍は補給を断たれてしまった。当然、オスマン帝国も第二次対仏大同盟(1798年12月24日〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加した。
ナポレオン・ボナパルトは、シリア攻略を狙ったがアッコ包囲戦(1799年3月20日〜5月21日)に敗北して失敗し、アブキールの戦い(1799年7月25日)でオスマン軍に大勝したものの、8月22日に帰国するためにエジプトを脱出した。残されたフランス軍が1801年に降伏して、この戦争(フランスのエジプト遠征(Expédition d'Égypte)1798年7月3日〜1801年)はイギリスとオスマン帝国の勝利に終わった。
フランス軍撤退後のエジプトは混乱し、1805年5月17日にムハンマド・アリーが総督に就任して事実上の支配が始まった(ムハンマド・アリー朝(1805.5.17-1922.2.28-1953.6.18))。
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