フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)の後半、フランス第一共和政(1792年9月21日〜1804年5月18日)はエジプトを支配下に収めて、対仏大同盟を主導するイギリスのインド植民地との連絡を絶とうとした。
ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍は、ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)開催中の1798年7月3日にエジプトに上陸すると、アレクサンドリア、カイロを陥落させた。しかし、8月1日にイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊していたフランス艦隊が発見・攻撃され、大敗した。地中海の制海権を失ったフランス軍は補給を断たれてしまった。当然、オスマン帝国も第二次対仏大同盟(1798年12月24日〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加した。
ナポレオン・ボナパルトは、シリア攻略を狙ったがアッコ包囲戦(1799年3月20日〜5月21日)に敗北して失敗し、アブキールの戦い(1799年7月25日)でオスマン軍に大勝したものの、8月22日に帰国するためにエジプトを脱出した。残されたフランス軍が1801年に降伏して、この戦争(フランスのエジプト遠征(Expédition d'Égypte)1798年7月3日〜1801年)はイギリスとオスマン帝国の勝利に終わった。
フランス軍撤退後のエジプトは混乱し、1805年5月17日にムハンマド・アリーが総督に就任して事実上の支配が始まった(ムハンマド・アリー朝(1805.5.17-1922.2.28-1953.6.18))。


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