アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア・オーストリア連合軍は1799年4月29日にミラノを制圧し、5月27日にトリノを制圧すると、7月には北イタリア一帯を奪回することに成功した。8月15日にジェノヴァ北方でロシア・オーストリア連合軍に敗れたフランス軍は、ジェノヴァに籠城した。
ヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻したオーストリア軍は、1799年6月7日にはチューリッヒを制圧していた(第一次チューリッヒの戦い)ものの、その後フランス軍と膠着状態に陥っていた。アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、ジェノヴァ攻略をオーストリア軍に任せ、スイスに駐留するオーストリア軍に合流するために、9月に北イタリアから北上を開始していた。
9月末にフランス軍はオーストリア軍に勝利してチューリッヒを奪還(第二次チューリッヒの戦い(1799年9月25~26日))し、スイス領内でオーストリア軍の敗報に接したアレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、東に転進して10月のアルプス越えを敢行してオーストリアに脱出した。
1800年に、ロシアはイギリスがバルト海で実施した臨検に抗議して第二次対仏大同盟を離脱した。北イタリアに駐留を続けたオーストリア軍は1800年6月4日にジェノヴァ攻略に成功したが、ナポレオン・ボナパルトによる第二次イタリア遠征により退路を塞がれてしまう。
ロシア・オーストリア連合軍の北イタリア制圧が1799年8月頃に順調に進んでいた状況を受けて、アレクサンドル・スヴォーロフがロシア軍を率いてヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻(オーストリアのスイス侵攻軍とはチューリッヒで合流する予定だった)し、オーストリアはスイス侵攻軍の一部をライン戦線に振り向けようとした様だ。
しかし、オーストリアの北イタリアに対する領土的野心も見え隠れするし、肝心のオーストリア軍が拠点であるチューリッヒを失うという失態を演じてしまい、非のないロシア軍は散々な目に遭う結果となった。また、スイスを失ったことでナポレオン・ボナパルトの第二次イタリア遠征を招き、北イタリアに駐留をつづけていたオーストリア軍も孤立させてしまうことになる。


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