ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いたプロシアがバーゼル条約(1795年4月5日)以来の中立政策を改めて、1806年10月9日にフランスに宣戦布告した。オーストリアが抜けた第三次対仏大同盟にプロシアが合流して、第四次対仏大同盟が成立した。【第四次対仏大同盟:プロシア・イギリス・ロシア・スウェーデン(1810年1月6日離脱);ポルトガル・サルデーニャ王国・ナポリ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※デンマーク=ノルウェーが1807年にフランスと同盟 ※オーストリア不参加 ※プロシア参加】
1806年10月14日にフランス軍はプロシア軍に壊滅的な打撃を与えて勝利し、10月25日にベルリンを制圧した。1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令している。プロシア王は東プロシアに逃れてケーニヒスベルクを臨時首都としたところ、フランスもポーランドに進軍した。
アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)でフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に辛勝し、フリートラントの戦い(6月14日)でフランス軍はロシア軍に大打撃を与えて勝利した。1807年6月16日にはフランス軍が臨時首都ケーニヒスベルクを占領し、プロシアは降伏した。プロシアは10年と6ヶ月のあいだ中立を決め込んだ挙句、ようやく危機感を抱いて宣戦布告してみたら僅か8ヶ月で降伏まで追い込まれた計算になる。
1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。

1807.7.7 ティルジットの和約【露仏講和・露仏協調の約束】
1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。
ティルジットの和約(1807年7月7日に露仏が講和)では、フランスとロシアが協調することが約束された。具体的な取決めは、ロシアがイギリスへ宣戦布告すること、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させること、その見返りにフランスはロシアがフィンランドを獲得することを容認すること、ロシアが占領している地中海のイオニア諸島をフランスに返還すること、であった。また、ロシアは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した。
1807.7.9 ティルジットの和約【墺仏講和】
1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。
ティルジットの和約(1807年7月9日に普仏が講和)に基づいて、エルベ川以西の旧プロシア領にはフランスの衛星国家ウェストヴァーレン王国(1807年7月9日〜1813年10月、1807年11月15日にライン同盟に加盟)が建国され、ナポレオン・ボナパルトの3番目の弟ジェローム・ボナパルトが王位に就き、プロシアの旧ポーランド領にはポーランドがワルシャワ公国という名称で復活した。

画像出典:旅行のとも、ZenTech
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