フランス本土に北からロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍が、南からイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が侵攻する事態となり、1814年3月31日にはパリが陥落した。4月4日にはナポレオン・ボナパルトが退位し、4月6日に王政が復古した(ルイ18世、フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日))。
1814年5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めた(第一次パリ条約)。スウェーデン・スペイン・ポルトガル3カ国も第一次パリ条約に署名した。
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)という23年超の戦争によって、戦争に強い国民国家という新しい概念はヨーロッパ中に波及していたが、「フランス革命は無かったことにしよう」という王たちの取り決めが粛々となされていった。
一方、敗戦国でありながら、セネガルのサン=ルイ島およびゴレ島は1815年のウィーン会議でフランスの植民地とされた。それぞれから、都市サン=ルイとダカールが建設・開発されてフランス領西アフリカ(1895年10月27日に成立)の拠点となった。

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