1815年6月9日に、オーストリア帝国(ハプスブルク家)は、旧領を回復したうえ、旧ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)領地だったイストリア・ダルマチアを獲得し、ロンバルド=ヴェネト王国(旧ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)領地のヴェネツィアと回復した旧領ロンバルディアを併せた領地)を建国してオーストリア皇帝が王を兼ねた。
オーストリア帝国(ハプスブルク家)を盟主とするドイツ連邦(1815年6月8日〜1866年8月23日)も復活した。
なによりも隣国フランスの国民軍に国土を蹂躙されたという記憶そのものが、オーストリア帝国を(とくにオーストリア帝国軍を)国民国家化した面も多分にあった。しかし、多民族国家である「元の」オーストリア帝国が復活し、加えてドイツ人の盟主としての国際的地位も回復されたため、国民国家の要件である国民意識の醸成はほとんど不可能であり、どちらかというと帝国の統一維持とは矛盾してしまった。
結果的に、国民国家オーストリア帝国としてというより、ウィーン体制を維持する最右翼・最保守として振る舞うこととなったことは、オーストリア帝国崩壊の遠因となったと言える。

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