1815年6月9日にプロシア王国(ホーエンツォレルン家、後のドイツ第二帝国)は、旧領を回復したうえ、ライン川西岸(ラインラント)とスウェーデン領ポメラニアを獲得した(ウィーン議定書)。なんどもフランス軍に敗れながらも、戦勝国としてナポレオン戦争(1799年11月9日〜1815年11月20日)を生き延びた成果だ。特に、地下資源とライン川の物流に恵まれたラインラントは、ドイツ第二帝国において工業地帯として発展することになる。
同じくウィーン会議で戦勝国となったオーストリア帝国は、復活されたドイツ連邦(1815年6月8日〜1866年8月23日)の盟主にも返り咲き、ひきつづきプロシア王国はオーストリア帝国の後塵を拝すようにも見えた。しかし、このことはプロシア王国単独としての「国民国家化」をスムーズに進めることができた点でむしろメリットであった。
フランスの相対的な国際的地位低下と外交的孤立を背景に、プロシア王国によるオーストリア外しとドイツ統一が進められ、1871年1月18日にヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝を戴冠することでドイツ第二帝国を成立させることにつながって行く。

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