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1815.3.16 NBW 王国として復活した国民国家 ネーデルラント(オランダ)🇳🇱#007

執筆者の写真: 四々縦七四々縦七

1813年12月2日にオラニエ=ナッサウ家のウィレム1世が亡命先から帰国し、旧ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)臨時政府はウィレム1世に君主の称号を贈ってウィレム1世が即位した。1814年3月31日にはパリが陥落し、5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めていた(第一次パリ条約)。


ウィーン会議(1814年7月〜1815年6月9日)が開催されているなか、1815年3月16日にウィレム1世がネーデルラント王(オランダ王)に即位して、ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)が成立した。


フランスに滅ぼされたネーデルラント(オランダ)は、連邦共和国から王国(連合王国)に形を変えて、国民国家としての第一歩を踏み出した。


国民国家8カ国目の今回、「国民国家の誕生」と「国民国家化」について簡単にまとめておきたい。まず、アメリカ🇺🇸・フランス🇫🇷・ハイチ共和国🇭🇹・パラグアイ共和国🇵🇾などは革命戦争に勝利して実現した狭義の「国民国家の誕生」パターンだ。


一方、イギリス🇬🇧・ロシア🇷🇺・スウェーデン🇸🇪などは決定的な敗戦を経験せずに、ある程度の時間的な幅を持って「国民国家化」を成し遂げるパターンだ。ここで言う国民国家化とは、『現代世界史すなわち国民国家のサバイバル・ゲームにおいて自覚的に独立を保ち続けること。また、そのための外交・戦争・産業振興・創意・工夫・努力など』と定義できる。


第三に、植民地・併合地域・保護国・衛星国などの他国に従属する立場から独立を回復するパターンがある。国の崩壊・滅亡、決定的な敗戦、他国による占領・統治などを経て独立を回復すると、『現代世界史すなわち国民国家のサバイバル・ゲームにおいて独立を保ち続けるにはどうすべきか?』という「国民国家化」の意識が生まれるのだ。ネーデルラント🇳🇱や永世中立国という選択をしたスイス🇨🇭はここに含まれる。そして、サルデーニャ王国(サヴォイア家、後のイタリア王国)🇮🇹やプロシア王国(ホーエンツォレルン家、後のドイツ第二帝国)🇩🇪も、ウィーン議定書(1815年6月9日)による旧領回復+αで、このパターンを歩むことになる。

ネーデルラント(オランダ)王国の国旗
ネーデルラント(オランダ)王国の国旗
【1815年6月9日 ネーデルラント連合王国の成立】

1815年6月9日にネーデルラント連合王国は、旧ネーデルラント連邦共和国領を回復し、オーストリアから南ネーデルラント(旧ルクセンブルク公領の大部分を含む)を獲得した(ウィーン議定書)。なお、旧ルクセンブルク公領はルクセンブルク大公国とされてドイツ連邦にも加盟し、ネーデルラント王(オランダ王)が大公を兼ねることになった。だから、厳密にいえば1815年3月16日に誕生したのはネーデルラント王国であり、6月9日に成立したのがネーデルラント連合王国ということになる。今回は、ネーデルラント(オランダ)が王国に形を変えてウィーン体制を迎えたという点を重視して、1815年3月16日に王国誕生という書き方にした。

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